S 生まれ育った場所は?
A 3-4才まで、与儀のセントラル病院裏のアパートで住んでました。そのあと首里に移ったんです。与儀の記憶は、なにも無かったことですね。家の裏が原野だったんです。
S 那覇市民会館があって、その向いに病院の通りがあって、真玉橋の方に行くと、りうぼう国場店とか古波蔵小学校とかありますね。昔は与儀タンクがあって、その前に、ぐちゃっと家が固まっていたんですね。土地を奪われた人とか。戦後は那覇は人が入れなかったので、周りの真和志地区に人が集まった。そういうところで、今でも与儀タンクあと、と呼ばれるあたりですね。何もなかったんですね。
A りうぼうとか何もなくて、原野火災がよくありました。
S 不良少年たちが忍び込んで、とかいうのですかね。
A そうですね。そのたびに親父が出動していました。
S 首里に引っ越したのはいつですか?
A 小学校に上がる前の1980年くらい。城西小学校の校区。今住んでいるところは、首里と那覇のあいだで、首里で、下山川といって、カワラヤーと呼ばれるエリアです。瓦職人が集まっていたんですね。
S 山川は、グランドキャッスルの裏あたりで、高低差がくっきりしていますよね。下山川は職人さんが多かったんですよね。芭蕉布とか…
A そうです。瓦屋とかね。首里山川と那覇松川との境界線なんですよ。
S 首里と那覇なら首里の方がワンランク上ですよね。
A 小学校は、僕が入ったときの校舎がコンクリ屋の旧校舎で、有名な建築家が作って、沖縄でもはじめての校舎が瓦葺きになったんです。瓦に卒業生・在校生が名前を書いた、という時期で、僕の名前もありますよ。学校のすぐ裏が、龍潭(りゅうたん)池と首里城ができる前の琉大の校舎が取り壊される前で、よく入り込んで遊んで、龍潭池によく落ちました。女性が立ちションして、それにすべって池に落ちたんですね。当時の龍潭池は浚渫していないから汚くて。琉大の取り壊し前の校舎でも友達と入り込んでよく遊びました。
S 僕は琉球大学に1980年に入学なんですけど、そのときから西原・中城に琉大が移転するけど、首里の校舎は首里城のために取り壊すんですがそのへんですね。おお、このへんでは、年表では、1981年が、農連市場の市場明け渡しで機動隊導入、西銘順治再選、1982年、平和通りアーケードが開通、だそうですよ。中学校が首里中でしょう。首里からこの辺の市場に遊びに来たことは?
A 当時、首里の人間は、市場エリア、国際通りなんかを那覇と呼んでいましたね。那覇に行こうって。おばあさんが公設市場、農連市場にいて、小学校の頃は、おばあさんが農連市場にいるので、友達とバスで、今のてんぶすのところ、その頃は国際ショッピングセンターでしたけど、そこで待ち合わせて遊びに来ました。来るときは、カツアゲ気をつけろよ、と言われました。
S 外から来る子たちにとっては、この辺と言えばカツアゲだったんですよね。
A ショッピングセンターの入り口のところに、おやじのおばさんが大城時計店をやっていて、何かあったらそこに逃げ込めと言われて。希望が丘公園はシンナー吸う方が溜まってて危ないから行くな、と。
S 希望が丘公園が整備されたのは、80年くらいでしたね。
A ショッピングセンター、上にボーリング場、ゲームセンター、地下の有名なカレー屋さん、炉端焼きの店、球陽堂とかに行きましたね。
S 国際ショッピングセンターの地下が地下街みたいで外食の場所だったね。首里の子はよく来たんですか?おばあさんがいたから?
A 映画館もあったし。花笠食堂に行ったり。市場の2階の道頓堀のおでん食べて。てびちのおでんが有名でした。道頓堀のおばあさんが、しーぶんしようねー、と言ってくれたので、てびちがしーぶんかと思ったら、クーブヤー(昆布屋)の孫だから、とコンブをシーブンしてくれた。
S 高校は真和志高校ですよね。そのときも、そんな感じで来ていた?真和志高校生は軽貨物で来るんじゃないですか?バスやタクシーじゃなくて。
A そうですね。軽貨物とバスですね。僕は本当は、昆布屋さんを目指す予定はなかったんですよ。
S それを聞きたかったんですよ。何になりたかったんですか?
A 歴史が好きで、世界史、日本史、琉球の歴史も勉強していて、北海道の松前城・五稜郭から首里城まで調べて自由研究とかしていたんですよ。
S いつくらい?
A 小学校です。博物館の学芸員をしたいと思っていました。93年、高校卒業して情報専門学校に入ったあと、19のときに昆布屋をしていたおじいさんが病気で亡くなったんです。昆布屋をどうするか、ということになりました。家の事情もあるし、コンブ屋は旧正月に欠かせない食材なので、つぶしたら大変だ、ということになりました。おじいさんは亡くなる前に、体がきつくなってから、コンブのゆがき方や千切りのしかたを教えてきたんですよ。それが忘れられなくて。これはやらんといけないかな、と。
S 19才の決断ですね。情報専門学校にいたんですよね。
A 昆布屋を継ぐことを家族は申し訳ながりました。学芸員になりたがっていることは知っていたし。でも、5人兄弟の長男なので、これはやらなければならないなあ、と思って専門学校はやめました。
S そのとき、お店は誰がやってたんですか?市場で?
A 山城昆布店はひいおばあさんが始めて、おじいさんとおばあさんが継いでいました。昔、農連市場は卸でした。小売りは第一(公設市場)なんです。朝早く5時くらいにおじいさんとコンブを自転車で農連に運んで売って、10時くらいに公設市場へ移動するんです。15年くらい前までやっていました。
S おじいさんには、市場を継ぐよ、といったんですか?喜びましたか?
A 言いました。喜びましたよ。
S おばあさんはどういうことを言いました?
A おばあさんは、客にありがとうと言わないことで有名な人でした。昔の商売人はそうでしたよね。千切りとか量り売りだから回すのが精一杯だから。お店にはじめて出たとき、お客さんに、はじめてあんたの店でありがとうと言われたさー、と言われました。え?と聞いたら、あんたのおばあさんよー、と言われて、あ、すみません、と。
-(フロアから)士族の商法、って言うことですか?
S 違いますよ。やんばるの人ですし。
A おばあさんは、市場では難儀するよー、と言いましたね。余計なことはいわん方がいいよ、ということと、役員にはなるな、と。
S 釘をさされたんだ。
A 5,6年くらい一緒にやりました。
S ふたつの店を行き来するような感じで?おばあさんとふたりで?
A そうです。一番大変だったのは自転車です。業務用自転車にカゴをつけて、何十キロものスンシー(シナチク)やコンブを運びました。19から23まで自転車で運びましたね。人通りが多いから怖かったですよ。最初はいろいろとまどいました。
S 卸と小売りの関係はどんなだったんですか?
A 農連市場は卸だから、食堂、第一公設市場の店なんかに売ることが多くて、自分の店なんかは弁当屋や惣菜屋が多かったですね。千切りイリチーとかクーブイリチーとかによく使うもんだから、僕たちは湯がいて販売するんです。周辺の食堂も多かったし、コザ市場や糸満からも仕入れに来ていました。共同売店みたいな小さなお店も農連市場に買いに来てました。それを小分けして小さな市場で売っていたんじゃないかなあ。小売りは一般のお客さん。地元のお客さんが今でも9割です。
S ほかにそういうふうにいくつか店舗をもつ店はありますか?
A よくあったと思います。上原ミートさんもそういう形でしたね。山城昆布店は、前の新元タオル店の裏の松尾二丁目市場にも出してたみたいです。それだけお客さんがいっぱいいたものだから小さなエリアの中に3カ所店を開いたりして。松本鰹節店も、すぐそばに店を二つ持っていましたね。
S 1980年代、こども時代の人のにぎわいはどうでしたか?
A 小さい頃はよく迷子になりました。おばあさんが三越友の会に入っていて、日曜は必ず三越に来るんです。三越で婦人服を買う。ぼくたちは7階のファミリーレストランと屋上の遊園地に行って。山形屋の屋上にもありましたね。ダイエーはゲームセンターだったですね。それから映画を見たり。日曜日はここらへんですよね。三越前はすごい人混みで、迷子になるなよー、と言われるんだけど、いつも迷子になって、牧志交番でお世話になりました。おばあさんにあとから言われたのは、サンライズのところで迷子になって、鼻水垂らしておしっこ漏らして泣きながら歩いていたら、界隈で有名なターンメー(おじいさん)が、クーブヤー(昆布屋)の孫じゃないの、と言って、市場に連れてきてくれました。今は迷子放送をする立場だけど、ついそれを思い出して。あとは、東宝館で1983年に中井貴一初主演の「連合艦隊」を見たのが初めての映画だったと思います。角川の里見八犬伝は安里の琉映。あと国映館とか。当時は、東宝、東映、松竹、と映画館が別れていたんですよね。
S その頃と、1990年代に市場で働き始めたころはそんなに界隈は変わらないですか?
A 1995年くらいから、人の流れが変わってきたなあ、と思います。
S 市場で働き始めた頃は、ちょうど復帰20年で、首里城ができて、NHKの大河ドラマで「琉球の風」があって、というときなんですよ。地元で沖縄再発見的な感じでブームがあった頃ですね。市場でもしょっちゅういろんなイベントをやっていましたね。
A 僕が関わったのでは、平成2-3年にピースラブマチグヮー&壺屋まつりがありました。1991年にパレットくもじができて、お客さんが流れるんじゃないかと心配して、当時の那覇市役所の担当部長がマチグヮーを盛り上げなければならないんじゃないかということで言い出して、市役所と組合の大先輩たちで始めたんです。屋良文雄さんなどのメジャー名人たちや大道芸人の人たちとかが来てくれました。
S ピースラブマチグヮーでジャズとかね。ストリートでライブをやるっていうのはそのときからですね。粟国さんは最初から関わっていたんですか?
A 僕は役員をやるようになった2003年くらいから関わりました。
S その前は一昆布屋さんとして働いていたと。じゃあちょっと話が戻りますが、昆布屋さんの話を聞きたいんですけど。昆布屋さんって昆布を売るだけでどうやって成り立つんですか?
A うちの場合、昆布を売っているだけではなくて、スンシーとか千切れ、クーブイリチーとか10種類商品があります。うちの陳列とか品物の内容は、旧の市場(復帰前の市場)とほとんど商品が変わっていないです。うちのおばあさんが売っている風景です。那覇の歴史博物館の公設市場の風景の写真に山城昆布店が写っています。品物の変化がほとんどないですね。コンブの消費は、10年前は沖縄がトップでした。今は富山ですが。まず、朝とか前の日、コンブをゆがいて、スンシーの塩抜きをします。平和通りに50年近く加工場があります。9-10時に市場で商品を陳列して午前は自分が店を見て、午後は母や妹が見ます。自分たちは一次加工をします。20年前、北大の大石圭一さん(『昆布の道』の著者)も取材に来ましたよ。なぜ沖縄の昆布の消費が多いかということで。沖縄と中国、北海道のつながりを取材したんです。NHKも特集を組みました。うちの昆布屋の売っている風景や加工風景が写真に残っています。
S 歴史好きとしては結びついたんですね。一年のサイクルではどんなですか?
A 売り上げが多いのは正月です。昔は旧正、今は新正。ぼくが昆布屋にはいったときは、すでに新正でした。おばあさんは、ドル時代がよかった、といつも言っていました。ドル時代は、1ドルが360円、正月はドル札ががっぽがっぽ入って、数えるのが大変なので、問屋の営業部員と一緒に数えた、と言っていましたね。あのときはすごかった、と言っていました。
S その話はどこの業種でも聞きますよね。
A おばあさんたちの遊ぶところと言ったら、映画かパチンコ、芝居でした。那覇劇場があって、大きいおばあさんと那覇劇場を建てた人が遠い親戚か何かで、芝居サーを呼んだりして、一緒に模合をしていました。
S 模合は商売模合ですね。運転資金を集める。この頃、1993年は小禄にジャスコが来たあたりですが、人の流れの変わったのを感じましたか?
A 最初はダイエーですね。那覇に大型店舗ができはじめて、今まで那覇に来るのが当たり前だったのが、近郊にも店がたくさん出来て、人の流れが変わりました。
S ずっとおばあさんと商売してきたんですか?今は誰と商売されているんですか?
A 10年前くらいにおばあさんが体調を崩してから、お母さんと妹と3名で切り盛りしています。
S 公設市場は家族操業が多いんですか?
A そうですね。精肉なんかもそうですね。
S 市場のことを聞きたいのですが、業種によって、地域によって個性はありますか?
A 肉屋は小禄ですね。学校も一緒で先輩・後輩、ムンチュウ(門中)も強くて必ずどこかで繋がっています。お祖父さん同士がエーカ(一門)とか。魚は港川、糸満。生鮮・漬け物は粟国。ヤンバルの人もいますが。地域ごとに別れています。
S 昆布屋さんは鮮魚?
A 昆布屋さんは生鮮です。ぼくたちはやんばるですが、少ないですね。
(フロアから)肉屋が小禄なのは何か理由があるんですか?
AS 昔からシシヤ(肉屋)が多かったから。
S 地域で性格はありますか?
A 市場では、宗教と政治には口はださん方がいい、と言いますね。なぜかというと、小禄は保守・自民が多く、魚屋は共産党、生鮮は公明党や中間系が多い、と言いますね。今でもわりとそうですよ。
S 市場の中では団結しているんですか?
A いやいや、仲がいいとかじゃないですよ。昔は、組合が5つくらいあったんですよ。鮮魚でもふたつの組合がありました。組合が乱立していたんです。
S 10代から市場に来て、そういうところにどっぷり漬かって、どうでした?当たり前だと?
A とにかく情報の伝わり方が速い。僕が今日言ったことがあっという間に伝わっている。正しい情報ならいいけど、一次、二次、三次…とどんどん情報が変わっていくんですよ。おばあさんは、マチグヮーはRBC(琉球放送)が多いからRBCに気をつけろ、と言ってました。
S RBCっていうのは、放送局の代名詞ですね。
A そうそう、最初は意味がわからなかったのだけど、人の口には気をつけろ、ということですね。
S 上の世代とつきあうときに気をつけたことは?
A うちの場合、コマの近所が仲良かったのでよかったです。大きなおばあさんからのつきあいなので。大きなおばあさんが、隣の人に、「これ買ってこーい」というと、買ってきてくれたりとか。
S 大きなおばあさんはボスだったんですか?
A いやいや、そうじゃないけど、年功序列的なところがあるんでしょうね。市場では半日以上一緒にいるので、家族づきあいなところがあります。隣が休みだと代わりに売ってあげる、という関係は今もあります。僕がいないときは、今も隣の人が売ってくれます。あとから、「主がいない」と隣に怒られますが。
S 90年代、同年代の人は周りにいましたか?
A 昭和49年生なんですけど、市場の中に同級生はけっこういました。肉屋さんや肉屋さんの従業員とか。今もけっこういますよ。
S 同世代で集まることは多かったんですか?
A 僕の場合は先輩とのつきあいを優先的に考えました。役員に入ったときには、まず、模合に入りました。組合の中にも模合があるんです。肉屋の模合とか。上の世代に言われたのは、当時、顔は知っているけどコミュニケーションをとれていない、もっとコミュニケーションを図れと言われました。そのために、模合をやれ、と。肉は肉、魚は魚で模合をやりました。
S おばあさんたちがやっていた模合とはちがうんですね。
A 違いますね。おばあさんの世代とはコミュニケーションの密度が違って、顔は知っているけど名前がわからない、とかあるので。肉は肉、鮮魚は鮮魚、という感じで模合したりとか。
S 粟国さんは複数の模合に入っているんですか?
A そうです。僕は肉屋さんの模合にも入っています。市場の業者で、複数の模合に入って、コミュニケーションとか情報の共有とかに模合が一番活用されていますね。
S 市場の店に入るともう組合に入ったことになるんですか?いつから組合活動を?2004年から広報・青年部長になっていますが。
A 平成15年くらいに組合活動を始めました。おばあさんからは役員にはなるな、と言われたんですけどね。市場では、女性が店舗にでるんです。男は裏方か組合活動をやるんです。組合活動を積極的にやる人とやらない人がいますけど。僕が組合の仕事をするようになったときには、組合長が若い世代で、組合やらないか、若いから、と誘われました。公設市場の組合の特徴は、年寄りにだらだら組合長や役員をやらせないことです。若い人に早く交代する、という流れがあって、70才まで組合長をやった人はいないと思います。50才の手前で交代する。自分が役員になったときには、29才くらいでした。2004年には、広報部長と生鮮部部長になりました。
S 広報部長、というのはどんな仕事をするんですか?
A 広報の仕事は、先輩からは、役所からのポスターがあれば貼るだけだから、と言われたんです。自分で言うのはおこがましいんですが、公設市場の広報は、自分が変えました。広報は市場の広告塔、というか窓口なんですね。取材が年間130件あります。調査事業の受け入れもあります。それまで組合長が対応していたんですが、広報が担うことにして、広報は組合長の秘書的な役割もすることにしました。当時、名物組合長だった津波古さんに、いつも横にいとけ、と言われて、ついて歩きました。これには感謝してます。津波古さんはおもしろくて、酒を飲まないと呂律がまわらないんです。笑い話ですけど、インタビューされても何言っているかわからなくて、テレビでテロップが流れたこともあったんですよ。自分は通訳なんです。組合長は、役所とよく戦うんですけど、役所の人間は机をどんどん叩く組合長が何を言っているかわからなくて、粟国さん、何を言っているんでしょうね、と聞いてくるんで、説明したりして。その頃に、秘書的な仕事をしたことで、各通り会の会長とも顔をつないだし、政治家も紹介してもらって引き継いだんですね。広報が僕にとっては財産になりました。
S おばあさんの言いつけにはことごとく背きましたね。2004年にまちわく(まちなか研究所わくわく)ができたんですね。広報部長になった頃ですよね。
A まちわくとのつきあいは…
(フロアから) 2001年も〜れも〜れチャンプルー祭りがあって…
A そうそう。にぎわい広場で。このとき、地域を盛り上げるのに、佐々倉くんとか宮道くんとか、今市議の中村圭介さんとか、琉大の学生メンバーが関わりたいと言ってくれて。
S 同世代か少し下でしょう?どう思いました?
A うれしかったですよ。も〜れも〜れのときに、組合から沖縄そばを300パックかな、提供しました。そのあと、ピースラブマチグヮーに関わって。まちわくがNPOになったとき、組合として正会員になりました。飲み会の席で、幹部に承諾を得て。
S 2001年の頃って、モンゴル800が売れて、若い世代がちょっと変わってきたかな、という感じのときですね。広報部長で、何か思い出はありますか?
A ちゅらさんブームのあとで、沖縄を題材にしたドラマも増えましたね。「涙そうそう」のとき、公設市場や桜坂をロケ地に、という話があって、エキストラの相談があったんです。僕も出る話があったけど…
S 妻夫木の代わりに???
A 違う違う…花笠食堂から人が出てくる、という風景撮りのエキストラで。僕は勇気がなくて。美里の後輩や小禄青果のおばさんを紹介して。あと、自分が広報のとき、火災がありました。平成17年の元旦に平和通りの事務所が燃えたんです。1時10分でした。昔は、正月の仕事が終わったら市場で酒を飲んでいたんですが、それで酔っ払っていたら、市場が火事だよ、という話が聞こえました。平和通りの加工場の隣が燃えていました。平和通りは昔は火事が多かったんです。ぞっとしたのは、風速9メートルで、火が渦巻きを巻いていたんですけど、隣にうちのおばあさんがいる、というので、酒を飲んでいたのでパニックになって、おばあさんを探して行きました。消防署を退職したばかりの親父が、昔の「なみさと」の火事でマチグヮーの火事の怖さを知っていたので、勝手に指揮をして消火活動にあたりました。若い消防職員が、ヘンなおじさんに、ホースの持ち方がならん、貸せ、といってホースを取られた、と上に訴えると、親父を知っていた消防署の偉いさんが、粟国さんじゃない?と言って不問に付された、という話がありました。自分はこのときべろべろで、火事場で携帯を落として、不審火だったので疑われてしまいました。
S 広報とは関係ないような…
A いやいや、普通は火事現場なんか入れないでしょう?でも、周りが、公設市場の広報担当なんだから入らせろ、と言って、入れたんですよ。映画撮影と火災が一番の記憶ですね。
S 2007年に『沖縄の市場〈マチグワー〉文化誌』が出版されて、市場の2階で発表会をして、僕はそこらへんから粟国さんとのつきあいができたんですよね。翌年から副組合長になったんですよね。2013年に組合長になったと。津波古さんはいずれ組合長にしようとしてたんですね?
A ほんとは自分は組合長になる気はなくて、そろそろ組合活動を止めた方がいいかなあ、と思っていたんです。あんまり続けると抜けられなさそうだから。でも、やめきれなかったのは、宮道くん、佐々倉くん(ともにまちなか研究所わくわく)なんかが街で活動しているのに、自分が止めたらつながりが切れてしまうので。行政や商店街とのつながりもありましたし。3. あと、津波古組合長が辞めるときに、「あすなろ」という店で飲んだとき、次は上原、次は粟国だね、と言われました。全面的に支えるからやってほしい、とふたりに言われたので、上原さんが組合長になったときに副組合長兼広報になったんです。
S 副組合長あたりから、周囲が激変したんじゃないですか?ダイエーショック(ダイエーの撤退)もあったし、三越もなくなって。
A 三越もなみさとがなくなって、老舗がなくなって土産物屋が増えました。公設市場の商品も変わって、漬け物屋さんが土産物屋さんになったりして、土産物が多くなりました。2001年にテロがあって、沖縄の観光客がかなり減った経験があったので、観光よりは地元の客を引く仕組みを作らないと、と思いました。その頃、市場は観光市場といわれていたんです。地元ともう一度つながるような市場にしたいなあ、と思っていたんです。
S 現状的には、変えられなかったところも多いわけですが…忸怩たる思いもありますか?
S あります。先輩には、お前は地元のお客さんを引っ張ってくるという話をしていたのに、現実的にはそれは変えられなかったんじゃないか、観光のままじゃないか、と言われるんですが。ジレンマがあるのは確かですね。
S 昆布屋さんとしては、商品が変わっていないでしょう?地元のお客さんだし。
A そうなんですけど、地元のお客さんは減っています。食生活が変わって、手間暇をかけてつくる料理をしなくなったんですね。もともとは、コンブを水に浸して売るのは総菜・中食的な役割だったけど、すでに惣菜が中心になっていますから。沖縄の食文化と家族形態が変わってきたんだな、というのはよく感じます。
S これからの戦略は? 1:21:37
A 先輩たちとも言っているんですけど、公設市場だけでなくて、マチグヮーエリアが運命共同体なので、市場も儲かりながら、お客さんが回って、周りも儲かるような市場にしたいと思っています。
S さて、ここで、みなさんからの質問なんですが、まずひとつ。市場で働こう、という決断について、今、どう思っていますか?
A 今でも思うのは、ほんとは今でも、別の仕事、学芸員をやりたい思いがあります。ただ、その部分は、広報のときにやっているのかな、と。歴史を調べて発信する、とか。大学の先生や議員さんたちと組んでやってきたと思います。市場の歴史、コンブの歴史、など、やりたいことを広報としてやっていた、と思います。振り返ればね。市場の学芸員ですね。小中学校のときに調べたことがけっこう生きていたりして。広報の1年目に、津波古組合長が、ふたりで飲んでいるときに、北海道の商店街から視察にくるので、よろしく、と言ったら任せろというんですね。当日、商人塾に50名くらい集まって。そしたら、昔、沖縄が米軍統治下だったときの、軍票だったときの話をきかせてほしい、と質問が出たんです。そしたら、組合長は、自分は大学で本土に行っていたので、そのとき沖縄にいた広報に答えさせましょうね、と言われて。僕は生まれてないですよ。でも、中学校で沖縄の歴史を勉強したことを思い出して、通貨交換の話とか、しゃべったんです。そのときに、組合長は信用しちゃいけない、ということと、歴史は自分で勉強しないといけないと思いました。
S 粟国さんが実年齢より年上に見えるのはそういう知識があるからかもしれませんね。さて、僕から、これから10の質問をします。好きなアメリカのテレビ番組で「アクターズスタジオ・インタビュー」というのがあって、最後に、質問にその場で答えるんです。思いついたことをそのまま答えてください。
1問目、行きますよ。好きなことばは?
A つながり
S 嫌いなことばは?
A ありません
S きもちを高揚させるものは?
A 酒
S うんざりすることは?
A 長い話
S 好きな音は?
A ああ
S 嫌いな音は?
A 黒板のぎりぎりという音
S 好きな悪態は?
A ばかちんとん
S やってみたい職業は?
A 学芸員
S やりたくない職業は?
A 昆布屋
S 天国についたときに神様にいわれたいことは?
A ゆっくり休みなさい
S ありがとうございます。ここで質問の紙を回収しますね。
質問1 粟国さんは、公設市場移転後も山城昆布店は続けますか?
A これは核心だねえ。まだ決めていないんです。もうすこし動きを見たいなと。市場事業者に影響を与えるので考えなくてはならないんですけど。続けるは続けるつもりなんですけど。
質問2 やめる店と続ける店はどちらが多いと思いますか。
A やめる人もけっこういるんじゃないかと思っています。感覚ですけど。外回り事業者は高齢者が多くて、市場の人たちは難儀しているから、子どもが公務員とかいい会社に勤めていて、家業を継がせる気がないんですよ。だから、生鮮や外回りはやめる人もいるんじゃないかと思うんですが。肉屋や魚屋はやる人が多いんじゃないかな。2階は残るでしょう。
質問3 今山城昆布店で売っている10の商品って、何ですか?
クーブイリチー用の昆布、湯がいた昆布(長昆布)、スンシー、千切れダイコン、角切れダイコン、カンピョウ、切りカンピョウ、フシカブ(乾燥ダイコンを湯がいたもの)、キクラゲ、タケノコなんかですね。そのなかで、おもしろいのはスンシーで、方言だと思っている人が多いんだけど、中国や台湾で、シナチクのことをスンシーっていうんですね。だから、そこの言葉だと思うんです。あと、沖縄で採れたものがないんです。昆布は北海道でしょう。スンシーは台湾・中国、角切れダイコンは愛知、千切れダイコンは宮崎なんです。沖縄の食材だけど、他府県からのものだというのがおもしろいですよね。
質問4 中央卸売市場が、青果・花卉に限定して設立されて、生鮮が入らないまま今に至っていますが、粟国さんは、どういう影響を受けていますか。それから、農連市場が中央卸売市場に吸収されないで卸売り機能を持ってきて、今、一度消滅したように見えて、まだ続いていますが、そういうことはどう思いますか?わたしが(岩本先生)市場の調査を始めた1990年頃は、全国で公設市場がなくなったころでした。あのころは、農連にもいたんですよね。
A 農連市場はおじいさんがなくなったあと閉めました。卸・小売りも薄れてきたので、公設市場に特化しようということで閉めました。流通では、鮮魚に関しては、泊に「いゆまち」ができたので、仲買人が直売をして、鮮魚の流れが変わりましたね。農連について言えば、野菜は、糸満のファーマーズマーケットなどに集積しているので、今後、農連に集積するかどうかはわからないですね。農連と公設市場の関係は注視しなくてはならないと思っています。これから、農連も24時間の小売りもやるんじゃないかと思います。
S 今の話を聞いたら、小売りもやらないといけないですよね。
A そうなんです。そのときのふたつの市場の関係がどうなるかですね。農連は、昔から公設市場とつながりが深いです。ライバルだけど、切れない関係ですね。僕から、公設市場・農連市場の統合話を農連市場長に言い出したことがあります。どちらも建て替え話がありましたし、統合してウフマチ(大市)を作ってはどうか、と。公設市場を向こうに移転する手もあると思ったんですが。敷地も広いですし。でも、この話は出さない方がいい、ということになって、話が動きませんでしたね。
S 戦前、那覇の市場はウフマチと呼ばれていたんですよね。そのイメージですね。
A 農連の卸の機能と公設市場の公設市場の小売り機能と、同じエリアに集積することによって、ウフマチとして、エリアを再興することを考えたんです。八百屋さんは青空市。肉屋さんは建物。うまくいかない面もあったのだけど。だから、建物の問題よりも、ウフマチを再構築したいなあ、というのがあって。だから、今の事業者ももちろん優先しなければなならないのだけど、新規の業者も入れて、市場の周りに魅力ある食の店舗が集まって…。ウフマチ復活になるんじゃないかと。そうすると、農連市場の人たちもここらへんで商売するかもしれない。農連市場の総菜屋がこの近くにできたりして、やっぱり農連市場の雰囲気なんですが、今、近隣に増えていて、人気が出ています。ウフマチの再構築、ということになれば、おもしろいことになるんじゃないかと。
S ウフマチということばを知らない世代が多いけど、それをコンセプトにして出す、ということですね。はじめて聞いたな。とってもおもしろいんじゃないかな。ノスタルジーじゃなくてね。
A マチグヮー楽会の第1回で崎間麗進さんに来ていただいたとき、あなたたち、マチグヮーというけど、違うよ、ウフマチだよ、と言ったんですよ。そのときに、そうか、ウフマチなんだ、と思ったんです。ウフマチ再構築ですね。
(フロアから)基本計画にウフマチ、ということばが載っていますけど、粟国さんが言ったんですか?
A 僕が、ウフマチ、ウフマチ言ったから。
(フロアから)ウフマチって言うのは、東町市場の、軽便鉄道の駅の近くですね。
A そうです。だから、シシマチ、イユマチ、という昔からの形態は、今後も残していきたいんです。
(フロアから・岩本先生)那覇の公設市場は、米騒動のときに作られたり、昭和40年代に団地に付属して作られた全国の公設市場とは全然別のもので、公設市場であって公設市場じゃないのが那覇の公設市場だと思うんですね。
A これから、建替えの議論はいろいろ出るんですけど、ウフマチを再構築する、というコンセプトを全面に出すことによって…
S 明日、「公設市場サミット」をやりますが、それとつながることで、公設とは何か、というときに、ウフマチというのは大事な考え方になっていくんじゃないでしょうか。
(フロアから)ウフマチのコンセプトはいいなと思うんですが、そこでは何が売られるんでしょう?
S その辺は、明日の方でやった方がいいんじゃないかな。
(フロアから)情報提供なんですが、自分はうるま市に関わっているんですが、今、うるま市では、うるま市農水産業振興戦略拠点施設を計画していて、平成30年には開業する予定です。特産品を売るだけでなくて、うるま市の農・漁業の生産者の組織化と特産品開発を担う予定で、レストランも作るんです。指定管理者の「うるま未来プロジェクトグループ」のメンバーのひとつは、栃木県に本拠を置いて道の駅で野菜を売って年商20億、という会社「ファーマーズ・フォレスト」と組んで、そこのノウハウを使うんです。2年間は収益無しで、ということで、すでに活動しています。組織化と特産品開発の方で、第一弾は、島魚の干物で、このあいだ発表会をしました。糸満のファーマーズは農協で、いろいろ制約があります。農協に入っていない人のものは売れないし。でも、産直という意味では、こういうところにはかないません。でも、街中であるということはここの強みです。糸満に行って魚を買う、うるまに行って農産物を買う、ということと、ここは別のものを求められていて、街にある街の市場であることをどのように生かすか考えなくちゃいけないんじゃないでしょうか。吉祥寺も、戦後の闇市が残っていて、そこに若い人の店があって、うまく行っている。そういうふうに、街だということを活かせばいいんじゃないでしょうか。
S どう思いますか?
A これからの那覇のマチグヮーの核心部分ですよね。明日、また公設市場サミットでその点は話したいですね。今は農連も公設市場も踏ん張りどころだな、と思います。僕は、ウフマチを再構築したいのと、通り会も繋がりが出てきて、沖映通りも通り会に入って、今までは国際通りがメインだと思ってやってきたけど、今や、地元向けの店はマチグヮーと沖映通りになっています。これを繋げてマチグヮーロード構想を考えて、専門店を集めたいなと思います。大きな業者じゃなくて、高齢者や若者や女性やいろんな小規模事業者が商売できるようなエリアのひとつのモデルに公設市場をしたいです。
(フロア)今、道の駅なんかはどんな感じですか?
A 各地の道の駅が公設市場化していると感じています。
S 先行している恩納村なんかそうですね。
A 名護の許田の駅なんかが、全国でもトップクラスですよね。
(フロア・岩本先生)12億から13億円の売り上げですね。
A 名護の特産品も売っているし。ここが公設市場化していますよね。那覇でも実は、道の駅構想があったんですよ。これは流れましたけど。今、道の駅が公設市場になりつつあって、その中で公設市場がどう生きていくかというのは、コンセプトをしっかりしないと難しいと思います。
S さて、そろそろ閉めたいと思います。言えなかったことは、夕方のさくら亭の懇親会で。今日はおつかれさまでした。僕の感想をいうと、はじめマチグヮー楽会を始めた頃は夢を語るという感じだったけど、今は組合長になっていろんなことがリアルになりましたね。9年間というのはいろいろあったんだな、と。粟国さんの場合、おじいさんの店を継ぐという決断が今に続いているんだなあ、という感じがしました。これからも、客として、市場が続いてくれるといいなあと思っています。今日はありがとうございました。
記録 小松かおり